なんと、この本を読むのに1か月もかかってしまった。今年の猛暑で寝る前に読んでいたのが、暑さのあまり一日に数ページしか読み進まなかった。ストーリーが分断されまくったので、ちゃんと読めていないという前提でとりあえずの記録。
サトクリフの作品を読んだ後は、大きな財産を受け取ったという柔らかくて重い充足感があるが、この作品はそうではない。主人公の少年ヒューの年齢が10歳ということもあって、さすがのサトクリフさんも両親の死と意地悪なおばさんという設定以上の不遇は与えなかったようだ。(もちろん両親の死という以上の不幸はないわけですが。)
両親の死後、ヒューは子犬のアルゴスを連れてジェイコブおじさん・アリスンおばさんの世話になりますが、おばさんはヒューとアルゴスの世話を厭いこき使い、ついにアルゴスを殺そうとします。アルゴスをどこかに連れて行かなければならない、と気づいたヒューは、ここから逃げ出すことを思いつきます。そう、進退窮まったとき、逃げ出すというのは、”なぜそれまで思いつかなかったのか”と思うくらい難しいことかもしれません。ヒューに拍手をおくりたいのは、まず、逃げ出したことです。しかもオックスフォード大学へ給費生として学問をするという計画を立てたことです!
”ほこりまみれの足”というのは住む家を持たず旅から旅への暮らしをする人たちのことです。
「おれたちは風のように気ままにあっちこっちへ旅をするのさ。虹の足もとまで続く道をね。」
旅芸人一座の親方の”虹の足もと”という言葉を聞いて、ヒューはこの人たちといっしょに連れて行ってほしいとたのみ、ほこりまみれの足の兄弟にしてもらって旅をします。
この本の大半は旅の描写です。旅中で語られる羊飼いの伝説や言い伝えなど魅了されます。私など内心、ヒューはいつオックスフォードへ向かうのかとやきもきしていると、都合よくヒューのお父さんが給費生をしていたヘリティジ氏に出会い、息子の給費生にならないかと申し出るのです。ヒューの出した結論は申し出を断るというものでした。
”何かちがう二つのことをしたいと胸のいたくなるほどねがい、しかも、そのうち一つだけしかできないとき、心を決めるのはやさしくはありません。とりわけ、まごころが問題になるときは。”
ほこりまみれの兄弟たちといっしょに旅を続けると決めたヒューですが、結局ヒューはジョナサン(旅芸人の一人)の説得でオックスフードへ行く決心をします。サトクリフはこれ以上ヒューに選択させる苦しみを与えませんでした。まわりの良い大人たちに支えられて生きていける希望の物語となっています。
これは、スポーツもの?恋愛小説か?朽木祥が?・・・と読んでいたら第2部での急展開。このストーリーをどう受け止めたらいいんだろう。
体育会系をめざす活字中毒の日高侃とカッコイイ鳥羽貴之の友情物と括った方がいいか。高校入学早々鳥羽貴之が侃を誘って硬式庭球部に入部するところから始まる。ボールが「オン・ザ・ライン」になるか、アウトになるかその運の境目をそれぞれがどう生きるか・・・心の、身の置き様を朽木さん流に描いてくれたのだろうか・・・
何年か前「かはたれ」を読んだときの深い感動は今も続いている。一文一文が気持ちに染み渡り、目に見えないものを心に描くとはこういうことなのかとこの作品に出会えた喜びで満たされた。折しも「子どもと読書」2013年7・8月号N0.400号記念誌は”朽木祥の作品世界”の特集。この「オン・ザ・ライン」を読んで、すぐ「八月の光」も読んだ。「八月の光」は原爆のあったその日の物語である。―ーこの本の扉には「生き残った人々のために」と書かれており、「かはたれ」はまさに生き残ってしまった河童の物語なのだ―ーと藤田のぼる氏は書いている。
そうすると、「オン・ザ・ライン」はテニスプレイヤーとして生き残ってしまった侃の生き方と読めるのだろうか…自分のせいで自分の代わりに事故に合わせてしまい松葉杖の人にしてしまった負い目とどう向き合うかは、≪生き残り≫方なのだろうか
良い本に出合うと、「これは子どもたちに読めるだろうか。」「どうしたら読めるだろうか」とまず思う。司書時代6年生の推薦図書として「かはたれ」をすべりこませた。どうしても読んでほしい本だった。「八月の光」も今なら入れるだろう。
”失われた面影、失われた声をかたちにできればと祈りながら””声高にではなく心に染み入る静かな声で”(朽木祥)語られた物語を知ってほしいから。
図書館の本棚を歩いていたら、突然飛び出してきた(ように思った)のがこの本。(一般書です)まさに「ほんとうに不思議なことに、ある本を読みたいとずっと思っていると、本のほうから目に飛び込んでくることがある」(『オン・ザ・ライン』P79)状態だ。
舞台は19世紀のパリと現在の小樽。修復技術の専門学校があり、”ルーヴル美術館の展示作品で修復の手を借りていないものはないという常識”の世界が描かれる。修復か?模写か?贋作か?が交錯しフェルメール作「赤い帽子の女」のなぞを解き明かすミステリーである。昨日もゴッホの偽物といわれていた「モンマジュールの夕暮れ」とうい作品が本物だった、なんていうニュースが飛び込んできたが、本書を読むとますます本物の真価って?と問いたくなる。
私の読み方が悪いのか、絵画制作の描写のすごさに対し主人公折原祐一郎が優柔不断なのはわかるが、感情が置いてけぼりをくって最後までいらいらしてしまった。(作者は芸大の油画の教授なのだ)
それはともかく、実は私が書きたかったのは、『オン・ザ・ライン』のフェルメール。『オン・ザ・ライン』には絵葉書としてフェルメール作「音楽の稽古」が登場する。絵はがきには絵はなく絵の説明書きがあたかも絵のように描かれている。
”少女が、ヴァージナルと呼ばれる小型のチェンバロを弾いている。楽器の上にかかった鏡にはその姿が映りこんでいる。”
のように。どんな絵か見たいじゃありませんか?!図録載せてくださいよ~と訴えたくなる。
ーーとこれは調べたくなるように編集者が仕掛けたというじゃありませんか!初めはこの絵葉書のページはなかったんだそうで、朽木祥さんが絵葉書好きということで加えられたと『子どもと読書』で明かしておられました。
しっかりはまってわたしはフェルメールの絵をネットで検索しまくりました。そういえば2年前「手紙を読む青衣の女」も京都まで見に行ったのです・・・・
今小学校や幼稚園などでは、消防署の許可をとって焼き芋するんでしょうか?学校の畑の秋の収穫はサツマイモがダントツに多いと思うのですが、収穫時期の読み聞かせにこの本はピッタリです。そうそう、私の小さいころは、落ち葉を集めたら、みんなサツマイモを持ち寄って突っ込んで焼いたものでした。焼いている間パチパチと焼ける音や炎は不思議と心が落ち着くのですねぇ。もりの動物たちの焼き芋大会の後はおきまりの≪おなら≫ですが、この本の楽しさ倍増はここから。りすの≪プスゥ~≫ いのししの≪ブホッ≫などとおなら大会の始まりです。子どもたちと照れずに合唱?すると楽しいだろうなぁ。だれが優勝したかは読んでのお楽しみ。
おばあさんは身の回りのものに名前をつけています。車は『ベッツィ』。椅子は『フレッド』。ベッドは『クロサーヌ』家は『フランクリン』といった具合。自分より長生きするとわかっているものにだけ名前をつけているのです。
おばあさんはともだちより長生きしてしまったのでもう誰からも手紙はこないのです。友だちもいない、名前をよぶ人もいない、そんなひとりぼっちの年寄になりたくなかったのです。自分より長生きのものたちに名前をつけ、”友だち”に囲まれて幸せにくらしていました。
そんなおばあさんの家フランクリンのところに小さな子犬が毎日来るようになりましたが、子犬を飼うことはできません。飼うとなれば名前をつけなくてはいけないし、おばあさんの方が長生きしてしまうのは困るのです。おばあさんはこれ以上友だちより長く生きていたくはないのですから・・・・
ところが、毎日来ていた子犬がある日を境にやってこなくなったのです。心配でたまらなくなったおばあさんは子犬を探す決心をします・・・
生き残った者の切ないほどの悲しさ。ーーー辛さや悲しさを恐れるのはわかるけれど、勇気をだして踏み出す決心をしてごらん。ーーーと静かに後押ししてくれるように感じた。年老いても、年老いているからこそ、一歩を踏み出す勇気があれば人は変われる。そう、人生の豊かさ(幸せ?)って閉じることではなく開くことって思える。だって
「ベッツィに乗ってもラッキー(犬につけた名前)は車酔いなんかしなかったし、フレッドはよろこんでラッキーをすわらせてくれたし、フランクリンはじつは犬の毛なんてまったく気にしなかったのです」から。最後のページのおばあさんとラッキーのなんて幸せそうなこと!
「おえどのおなら」
おちのりこ作(教育画劇)
おならの音ではこちらの本も負けていない。
おなら音満載だ。子どもたちに言わせて楽しもう
「100ぴきのいぬ100のなまえ」
チンルン・リー作 (フレーベル館)
こちらは100ぴきのいぬ全部に名前をつけた!マフィン、ブラシ、スキップ、がんも、にぼし、らっきょ(一体原文は何?)・・・・村中李衣さんが講演会で100ぴき全部すごいスピードで一気に読み聞かせされて拍手喝采!読み聞かせでぜひやってみてください。